私は23歳のとき、厚生省に入りました。
今から30年以上前のことです。当時の私はまだ若く、社会人としての経験もほとんどありませんでした。
私が勤務したのは、食品保健課検疫所業務管理室でした。
朝は8時半から勤務。住んでいたのは船橋市小室の公務員宿舎で、職場までは片道約2時間。毎朝、かなり早い時間に宿舎を出て通勤していました。
仕事も非常に忙しく、夜遅くまで働くことがありました。終電を逃してしまい、津田沼駅まで行って、そこからタクシーで宿舎に帰ることもありました。
そんな毎日の中で、1995年には社会を揺るがす大きな出来事が相次ぎました。
阪神・淡路大震災
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生しました。
当時、私がいた検疫所業務管理室でも、まず職員やその家族の安否確認が重要になりました。現地との連絡が取りにくくなる中、職場にも緊張感が走っていました。
私の記憶に今でも残っている出来事があります。
震災後、上司の一人がコンビニなどで大量のおにぎりを買い、被災地へ向かったことです。
「現地で何か役に立てることを」という思いだったのだと思います。
また、当時の厚生大臣だった井出正一さんについても、印象に残っている話があります。
井出大臣が「自分も現地に入りたい」ということで、私たちのところに、**「検疫艇を用意してもらえないか」**という話が持ち込まれた、という記憶です。
当時の私は若い職員でしたので、その話の具体的な調整にどこまで関わったのかは覚えていません。
ただ、「大臣自身が現地に入りたい」という話が出て、検疫艇を使うことまで検討されたことは、今でも記憶に残っています。
実際、井出厚生大臣は震災後に現地を訪れており、国会でも「何度か現地へ行って目の当たりにした」と発言しています。(国会会議録検索システム)
今振り返ると、厚生省も震災への対応に全力を挙げていた時期でした。厚生省の記録でも、発災後24時間以内から災害対策本部の設置、医療班の派遣、避難所への食品・飲料水などの供給といった対応が行われたことが確認できます。(厚生労働省)
インドネシア・バリ島のコレラ
そして、その年にはインドネシア・バリ島から帰国した人たちを中心に、コレラの発生が大きな問題になりました。
検疫の仕事をしていた私は、テレビなどでコレラのニュースが報じられていたことをよく覚えています。
海外から日本に感染症を持ち込ませない。
それが検疫の大切な仕事です。
当時は今ほど「検疫」という言葉が一般の人に知られていなかったかもしれません。
しかし、私たちにとっては、外国から入ってくる感染症を水際で防ぐことが重要な仕事でした。
そして地下鉄サリン事件
そして、今でも鮮明に覚えているのが、3月20日の地下鉄サリン事件です。
あの日の朝、私は船橋から都内へ向かう電車に乗っていました。
すでにダイヤが乱れていました。
「何かあったのかな」
そう思いながら、何とか電車を乗り継いで霞が関近くまで来ました。
すると、霞が関で事件が発生しているため危険だということで、霞が関では降りられず、国会議事堂方面まで進むことになりました。
その後、国会議事堂から霞が関の庁舎へ向かいました。
すると、消防車や救急車が何台も走っています。
そのときの私は、まさか大規模な事件が起きているとは思っていませんでした。
「喧嘩でもあったのかな」
そんな程度に考えていたのです。
ところが、庁舎に入ってみると、電話が鳴り響いていました。
私の記憶では、その日、庁舎に一番乗りだったと思います。
電話を取ると、女性の方から、
「大変です。その近くで事件が起こっています」
と知らせてくれました。
おそらく誰かの知り合いの方だったのだと思います。
今振り返ると、あのとき電話をくださった女性にも、改めて感謝したい気持ちがあります。
その後、多くの職員が電車のダイヤの乱れなどで遅れて出勤してきました。
そして後になって、あの事件が地下鉄サリン事件だったことを知りました。
本当に驚きました。
1995年は、阪神・淡路大震災、コレラ、地下鉄サリン事件と、社会を揺るがす出来事が相次いだ年でした。
23歳だった私は、その時代の真ん中で、厚生省の職員として仕事をしていました。
当時は、目の前の仕事をこなすことで精いっぱいでした。
今、55歳になって30年以上前を振り返ると、あの頃の自分がどれだけ大変な時代を生きていたのか、少しずつ分かるようになってきました。
そして思います。
あの3年間は、私の人生の中で決して忘れることのできない時間だった、と。

